Saturday 23 September 2017

エチオ・ジブチ鉄道(1917年全線開通)

■二つのジブチ-エチオピア間の鉄道、その1

ジブチとエチオピアのアジスアベバを結ぶ鉄道には、時代を経て20世紀初頭に完成した鉄道と、近年完成した(運営はまだ)の二つの路線が存在する。

1)エチオ・ジブチ鉄道 Ethio-Djibouti Railways
2)アジスアベバ・ジブチ鉄道 Addis Ababa-Djibouti Railway

今回は、その1として、19世紀から建設が始まり、20世紀初頭にアジスアベバまでの全線が完成したエチオ・ジブチ鉄道について説明します。

▼エチオ・ジブチ鉄道 Ethio-Djibouti Railways

1894-1917年に建設された植民地規格である狭軌(1000mm 3ft 3 3/8inch)の鉄道で全長784㎞、ジブチ国内は約100㎞でほとんどがエチオピア国内を走る鉄道である。

ジブチ港からエチオピアの首都アジスアベバまで、ジブチの標高0mからアジスアベバの2300mまでの高低差を運行した。その間、187カ所の橋梁と1カ所のトンネル(Gol du Harr)があり、鉄道の運行に伴い、Dire Dawaという都市が鉄道の建設に伴い、建設された。機関車は蒸気機関車、そして、ディーゼル機関車が使用された。

この鉄道は数年前まで運行されていたが、2008-2014年の間に徐々に運行が停止され、公式には2016年末で廃線となっている。他方、中国の支援により標準軌のアジスアベバ・ジブチ鉄道が旧線のエチオ・ジブチ鉄道の路線に概ね並行して建設された、これは後述する。

2008年以降、全線の鉄道の運行が停止されたが、ジブチ-ディレダワ間は2010年まで運行していた。2013年8月に一度再開されたが短期間で終了した。その後、機関車や車輌は放置され、現在に至っている。

DireDawaの車輌修理工場は、2010年、新たな鉄道建設のための新会社へ移行した。メタル・エンジニアリング会社(Metal and Engineering Company: METEC)は2011年から2016年に貨車500輌を製造し、旧鉄道の遺産を引き継いで新鉄道へ貢献することとなった。

▼エチオ・ジブチ鉄道の歴史

エチオ・ジブチ鉄道は、フランス・パリに本社を置くImperial Railway Company of Ethiopia(仏語:Compagnie Imperiale des Chemins de fer d'Ethiopie)、エチオピア帝国鉄道会社が、ジブチ港とアジスアベバを結ぶ鉄道を建設する目的で、1894年にAlfred Ilg/Leon Chefneuxにより設立されたことから始まる。

その構想は、Alfred Ilgが、前皇帝や政治家の関心を集めて、ジブチ港からアジスアベバまでの6週間かかるロバの行程を鉄道に置き換える企画を、彼がメネリク2世の顧問であったときに行った。

1889年、メネリク2世が皇帝になった時でも進捗していなかったが、具体的な鉄道建設の交渉が始まり、鉄道建設の法令が1893年2月11日に発布され、1894年3月に鉄道建設の調査がIlgとフランス人技術者のチームが編成され行われた。

1894年3月9日に帝国令が発布され、鉄道建設を開始することが可能となった。メネリク2世皇帝は、自らの鉄道建設ベンチャーへの出資を躊躇したが、Ilgと彼の会社に99年のコンセッショネアー(期限付き割譲)権と一定の株式保有、さらに、3百万フラン以上の全ての利益の50%を受け取る権限を付与した。さらに、鉄道会社は、鉄道路線と並行して通信網の整備を行うことを義務とした。

鉄道会社は、鉄道建設に関する許可をフランス政府から取り付けるのに、エチオピアでの鉄道建設の反対派が形成される1897年まで時間を要した。メネリク2世は、鉄道建設への融資に関してフランス政府が関係することに怒りを表し、鉄道建設に反対するデモが発生した。

さらに、アジスアベバの英国公館が、英国領ソマリアのZeila港からの輸送量が減少することに懸念した。これは後に証明されることになる。鉄道の半分が完成した段階で、鉄道輸送は、ハラルとアジスアベバ方面のどちらか一方のキャラバン輸送貿易を駆逐した。

鉄道会社の株式は、欧州市場での販売に苦戦し、会社はフランス全国の市の商工会議所で販売促進を行った。しかし、投資家の関心は自制的であり、メネリク2世はフランス政府の直接的な融資に反対し、資金調達に苦慮した。

鉄道建設は1897年10月、ジブチから始まり、マイナーな港であったジブチが鉄道建設により第一の港となった。アラブ系の乗務員やソマリアの労働者は、ヨーロピアンより多く見られ、彼らは内陸へ向かって、通信線とともに工事を進めて行った。エチオピア人の多くは、鉄道建設資材の盗難防止のために治安部隊として雇用された。この建設工事の状況は、労働者によるサボタージュや地区のチーフによる前金の要求など、フランス人による初期の運営への重要な不正のソースとなった。

鉄道がエチオピア国境の到達する前でさえ、鉄道会社は深刻な資金不足に陥っていた。そのため、New Africa Companyと呼ばれる英国系の投資グループは、鉄道会社を数年、支配下に置き新たな資金を提供した。1901年までにフランスの投資家はInternational Ethiopian Railway Trust and Construction Companyを組織し、資本参加を行った。そして、鉄道会社の経営を担い、その後の資金調達を行い、1901年7月にジブチ-ディレダワ間の鉄道が営業運転を開始した。

▼エチオ・ジブチ鉄道の全線開通

英仏の混成した関心は鉄道建設継続に不安定な状況を生み出し、それぞれのグループの投資家はそれぞれの国家と商業を重視するようになり、そして、両国の政府はエチオピアの貿易を独占することに強い関心を抱き、陰謀を他者に対して企てた。

この両国の状況を見てメネリク2世は、1902年、鉄道のハラルへの延伸を禁止した。フランスの交渉再開は、メネリク2世のフランスの増幅しつつある活動を警戒してブロックされた。その結果、全線が開通していない中でのさらなる限定的な鉄道のサービスは、融資の返済に必要な十分な収入を得られなかった。

1904年、英仏は可能な限りこの事態を解決すべくEntente Cordialeを締結し両国は解決策を提案したが、具体的な進展には至らず、1906年、鉄道会社は公式に倒産した。

ジブチからハラールの手前まで完成していた鉄道は、既存のエチオピア南部の商業の集積地となった。

メネリク2世の時代、ソマリ系Issa族とGadabursi族は、アジスアベバまでの鉄道建設期間中の労働力であり、鉄道建設を通して多くの利益を得た。また、ディレダワは、鉄道駅が設置されたことによりハラールよりも大きな都市となった。

1906年の英仏伊の三国条約、続いて、1908年の仏とエチオピアのKlobukowski条約が締結され、メネリク2世はその後の鉄道の延伸に同意し、1908年1月30日、新たな鉄道建設に関するコンセッショネア契約がメネリク2世の仏人顧問医との間で締結され、新たな鉄道会社であるFranco-Ethiopian Railway (Compagnie du Chemin de Fer Franco-Ethiopien)が設立された。この時、インドシナ銀行が融資に参加している。

旧会社の資産は新会社へ譲渡され、アジスアベバまでの鉄道建設を担った。前会社への投資家や政府との1年に亘る調整の末、鉄道建設が再開された。1915年までに鉄道はAkakiまで到達し、2年後の1917年に残りの23㎞を敷設してエチオ・ジブチ鉄道全線の鉄道が完成した。

▼第2次世界大戦後のエチオ・ジブチ鉄道

エチオ・ジブチ鉄道は、1960-63年に、Adama-Dilla間310㎞の延伸計画の調査を実施し、エチオピア政府は、Nazareth-Dilla Railway Development Corporationを設立した。1965年、フランス政府は融資をエチオピアへオファーし、ユーゴスラビアの専門家が調査した。事業は妥当性(実施する価値がある)が確認されたが実施には至らなかった。

エチオピア政府の鉄道会社のシェアは、第二次エチオピア・イタリア戦争の結果、イタリア政府に召し上げられたが、第二次世界大戦後にエチオピアに返還された。

1977年にジブチが独立し、フランスの持ち分はジブチ政府に移譲され、1982年、鉄道会社は、その後、Ethio-Djibouti Railways (Compagnie du Chemin de Fer Djibouto-Ethiopien)に再構成された。

鉄道建設に携わった労働者は、1947年、エチオピアで最初の労働組合である「ディレダワ鉄道労働者組合」を設立し、鉄道事業は、エチオピアの労働運動のパイオニアを醸成したが、1949年、労働組合が組織したストライキは、政府により強く弾圧された。この時期、政府機関労働者によるストライキは反政府運動として多く見られた。

▼エチオ・ジブチ鉄道の衰退

第二次世界大戦後、エチオ・ジブチ鉄道の長期の衰退が始まった。それは道路建設が進展し、貨物輸送が鉄道から道路輸送に転換していく過程であった。1953年から1957年には鉄道の貨物輸送量が半減した。また、オガデン戦争(1977/78)の発生により、ソマリア軍がディレダワへ侵攻し、鉄道を占領したことから、更に影響を受け、半減した。

戦争終結後、鉄道は運行が再開されたものの、維持管理の不足やOLF(Ogaden Liberation Front)による攻撃により、更に衰退していった。そのため、エチオピア政府とジブチ政府は外国援助による鉄道リハビリテーションを求めた。2003年にEUが40mil EUROの無償資金協力を実施、その後、2006年に50mil EUROへ増額している。

2006年11月29日、イタリア企業であるCONSTAコンソーシアムと契約締結、オガデン戦争でダメージを受けた箇所のリハビリが2007年から開始された。

また、運営に関して南アフリカの鉄道運営会社である、COMAZAR(仏系企業であるBolloreが出資し、Eric Peiffer and Patrick Claesが南アTransnetとベルギーの Transurb ConsultとのJVで設立、ヨハネスブルグに本社を置く)が25年の運営権を獲得したが、これは実施されなかった。

そして、2008年はじめに、クェートの企業Fouad Alghanim and Sons Groupが鉄道の経営権について交渉中とのアナウンスがあった。

EUの融資事業は、停滞し、2009年までに約5㎞がリハビリされただけであった。その後、鉄道は部分的に放置された。リハビリテーションに失敗したジブチ・エチオピア両国政府は、新たなアプローチによるジブチ・アジスアベバ間の鉄道近代化を目指して、既存鉄道の終焉から新たな標準軌による鉄道建設へと判断が移っていった。その陰には中国政府のアプローチがあったに違いない。

2017年はエチオ・ジブチ鉄道が全線開通して100周年にあたる、イベント情報は聞こえてこない。

もう一つの鉄道が標準軌のアジスアベバ・ジブチ鉄道です。これは次号以降にて説明しようと考えています。

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